たたら製鉄によって隆盛を極めた時代を偲ぶ
ご利用案内
施設名 | 菅谷たたら山内 |
住所 | 島根県雲南市吉田町吉田4210番地2 |
電話番号 | 0854-74-0350 |
開館時間 | 午前9時~午後5時(入館は午後4時まで) |
休館日 | 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日) |
料金 | 一般 | 小・中学生 |
個人 | 310円 | 210円 |
団体(20名以上) | 260円 | 150円 |
※解説ご希望・団体利用など、ご要望のある方は、事前に<予約・申込>のご連絡をお願いします。特に繁忙期につきまして、ご予約なしでのご来館の場合、ご希望に添いかねる場合のあることをご容赦ください。
※身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳をお持ちの方及び介助される方は、入館料を全額免除しております。
- 利用料金減免
※学校教育法(昭和22年法律第26号)第1条に規定する雲南市内の幼稚園、小学校、中学校及び高等学校の園児、児童又は生徒が教育活動の一環として教職員に引率されて施設に入場する場合(引率者も含む)
常設展示案内
菅谷高殿とたたら製鉄
吉田町でたたら製鉄が始まったのは鎌倉時代であるといわれていますが、この時代から中世までは「野だたら」といわれる移動式の製鉄法が行われていました。
近世に入り吉田町でも高殿を構えて操業が行われるようになると、町内のあちこちで盛んにたたら製鉄が行われ、企業だたらとして隆盛を極めるようになりました。
全国で唯一、今に残る「菅谷高殿」は1751年から170年間の長きにわたって操業が続けられ、大正10年にその火が消えました。
このことは、この地がたたら製鉄を行うのに最適であったことを意味しています。
高殿式の製鉄が始まってから約300年、豊富な森林資源と、原料である砂鉄に恵まれた吉田町での製鉄の歴史の長さを思い高殿の中に足を踏み入れると、先人達が私達に遺してくれた歴史的、文化的遺産の偉大さを体感することができます。
山内(さんない)
たたら製鉄に従事していた人達の職場や、住んでいた地区を総称して「山内」と言います。
たたら製鉄の技術者達の日常生活がここで営まれました。当時のたたら製鉄の技術者達はもう一人もいません。しかし製鉄で山内が盛えた頃を偲ぶことのできる町並みが ここには残っています。家屋は改築を繰り返していますが、ここに住む人達の内側には昔からの伝統が受け継がれています。
それと同時に吉田町はたたら製鉄を伝える建物を保存し、復元してきました。静かな山内の中をゆっくり歩いてみて下さい。いろいろなことが発見できるでしょう。
元小屋
山内地区の仕事から生活習慣を含めて、事務所的役割をしていたのが元小屋です。天保末期の頃の建物ですが、改造、補修を繰り返して現代に残しました。
名前には小屋という文字が付いていますが、造り、間取りは昔の農家と同じです。二階建て柿葺き(こけらぶき)木造のこの建物には四畳半から十畳の部屋がいくつかあり、風呂場、台所など当時の生活の現場が残っています。天保4年(1833)に焼けた記録がありますから、その直後に建てられたものと思われます。
元小屋の中をそっと覗いてみて下さい。当時の生活の匂いが感じられます。
大銅場
ここでは鉧(けら)を割る作業が行われました。この建物の中には約200貫の大きな分銅が吊ってあり、これを落として鉧を粉砕しました。その分銅を持ち上げるのが水車です。
金屋子(かなやご)
私達に鉄のつくり方を教えてくれたのは、「金屋子」という神様であったと伝えられています。
吉田町の菅谷たたらに伝わる話では、金屋子神は地上に下りるとき、「村下」(むらげ)一人と「オナリ」一人をつれて下りたそうです。村下とはたたら製鉄の技師長、オナリとは巫女で村下の飯をたく女だったそうです。菅谷高殿のすぐ裏には「金屋子化粧の池」があります。女神の金屋子神はこの池を鏡にして化粧をされたそうです。
村下(むらげ)
村下とはたたら製鉄における技師長のことで、世襲で一子相伝でたたらの火が消えるまで引き継がれてきました。村下の仕事ぶりは全て経験と勘によって決まり、その科学観・自然観は優秀な鋼を生む源でした。
村下坂
村下だけが通ることを許された村下の花道です。繰業に入る日の朝は川の水でみそぎをして全身を清め、そして身にまとうもの全てを新しくした村下だけがこの坂道を通って高殿に入ることができました。
山内生活伝承館
山内を見下ろすところにあるのが山内生活伝承館です。山内に住む人たちが残してきた遺産を大切に引き継ぎ、公開している館です。
館内では「出雲炭焼き日記」をビデオで上映しながら、当時の生活に使われていたいろいろな民具を展示しています。四季折々に伝わる山内独特の習慣や生活を通し、たたら製鉄を支えた人々の心の有り様を垣間見ることができるでしょう。
鐵泉丸
たたら製鉄が隆盛だった頃、この山の中で生産した鉄を運ぶために「鐵泉丸」という千石舟を持っていました。松江、広島方面への出荷は、陸路を馬車か手車で庄原か三刀屋まで運んでから川船を使いました。
大阪へ出荷する際には鉄道を利用しましたが、鉄道が開通するまでは松江から「鐵泉丸」を使い下関を経由して大阪をはじめ全国へ出荷しました。
道路も整備してなく、経済的にも未発達だった何百年も昔に、この吉田町から大阪までを事業圏内としていたことは、現代この土地に住む私たちを奮い起してくれます。