たたら製鉄の歴史や技術・人々が使っていた道具の展示
ご利用案内
施設名 | 鉄の歴史博物館 |
住所 | 島根県雲南市吉田町吉田2533番地 |
電話番号 | 0854-74-0043 |
開館時間 | 午前9時~午後5時(入館は午後4時まで) |
休館日 | 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日) |
料金 | 一般 | 小・中学生 |
個人 | 520円 | 260円 |
団体(20名以上) | 410円 | 210円 |
※身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳をお持ちの方及び介助される方は、入館料を全額免除しております。
- 利用料金減免
※学校教育法(昭和22年法律第26号)第1条に規定する雲南市内の幼稚園、小学校、中学校及び高等学校の園児、児童又は生徒が教育活動の一環として教職員に引率されて施設に入場する場合(引率者も含む)
常設展示案内
展示1号館~たたらとその技法~
鉄の発生
それまで石や木の道具しか使っていなかった人々が、鉄のくわやすきなどの道具を手にした時、その様子はどんなだったでしょうか。
人々は、それらを使って原野を開拓し、稲作農業をおこしていきました。「鉄」は人々にとって、生活に役立つ金属、命を支える金属として、とても貴重な存在となっていったのです。
鉄をつくる
弥生時代の終わり頃になると、鉄をつくる技術が伝えられ、各地で鉄づくりが発達しました。
特に吉田町には良い砂鉄があり、木炭にする木もたくさんあったので、鉄づくりに適した土地として非常に盛んに鉄づくりが行われました。
砂鉄と木炭を使った独特の鉄づくり…この方法を「たたら製鉄」といいます。
室町時代までは、「野だたら」といって、山の中ほどで、風のよく吹く所など斜面に炉を築いて鉄を作っていました。
江戸時代になると、雨が降っても濡れないように高殿という建物を作り、その中で鉄を作るようになりました。これを「永代だたら」といいます。
吉田町の菅谷地区にある高殿は、その名残りです。これは今から250年くらい前に作られたものといわれています。
たたら製鉄は、まる一日かけて炉を作ることから始まります。炉をかわかしたあと、木炭を入れ、ふいごで風を送って火をおこし砂鉄を入れます。<砂鉄を入れる→木炭を入れる→砂鉄を入れる>これを3日から4日間繰り返し、最後に炉をこわして鉄を取り出します。
一回の作業は、「一代」(ひとよ)といわれていました。
この間、「村下」(むらげ)と呼ばれる技師長の勘と経験が、できた鉄の品質を大きく左右しました。不眠不休の大変な仕事だったのです。
展示2号館~鉄山経営と鍛冶集団~
鉄のもたらしたもの
たたら師たちが苦労して作り上げた鉄は、刀や大砲など武士たちの戦争の道具にも使われましたが、何よりも庶民の生活を向上させ豊かにするための材料として、欠かせないものでした。
家を建てるにも、橋を造るにも、鉄の道具・材料は大きな役割を果し、金や銀よりも大切にされていたといわれます。
このようにして、鉄は農業を中心とした日本の産業や文化の発展に大きく貢献してきたのです。
鉄山師 田部家
蔵のなかでは、田部家について紹介してあります。
日本一の山林王として知られるほどたくさんの山を持っていた田部家は、室町時代には「たたら製鉄」を始めたと伝えられています。
田部家ではどのようにして鉄が作られていたのか、また、そこに働く人々の給料はいくらだったのかなど、今でも興味ある内容を古い文書で見ることができます。
鍛冶集団
たたらで作られた鉄は、多くの人々の手を経て生活の場へと姿を変えていきました。
鋼造り、大鍛冶、馬・人・船による流通、小鍛冶…。鋼造りの眼、大鍛冶の労働は当時の人の技と生活を私たちに語りかけてきます。
村の鍛冶屋
今ではほとんど見られなくなりましたが、昭和の中頃まではたいていの町や村にこのような鍛冶屋がありました。
鍛冶屋は、町や村の生活に欠かせないくわ、すき、おのなどの道具類を作っていました。そしてこの材料の鉄は、もちろん、たたら場で作られていたのです。民家では、この鍛冶屋の作業場へご案内します。今にも動き出しそうな鍛冶師たちの手足の動き、熱気、息づかいまでが、肌を通して伝わってくるでしょう。